14.11.2019

数時間で20歳が終わる。

振り返れば華だった、とでも言おうか。

前半は掛け持ちし始めたバイトに塗れてやりたい事も目標も全部見失って、どうせ死ぬんだから人生どうにでもなればいいと思いながらも、少しだけレールから外れたことを後悔する気持ちもあった。今頃は就職決まっていて、前進するだけだったんだろうとか。あそこで逃げなかったら、人として変われていたんだろうとか。

 

でも全て投げ捨てていても、諦め切っていても、チャンスは目の前にコロンと転がってくるもので、いい流れに呑まれ揉まれオーストラリアにきて早4ヶ月。

まだまだ何もできてないし、課題しかないけれどこの4ヶ月のLAPを通してやっとこれで生きていくんだって思える仕事と、これだけは手放したくない趣味を見つけられた、それだけで来た甲斐はあったんだろうと。

 

明日からちゃんとがんばろう、がんばれる

だって21歳になっちゃうんだもん。

26.10.2019

渡豪して早4ヶ月

 

金輪際現れないチャンスに乗って掛け替えの無い経験を手にしたものの、その代償に言い表し難い上、目で見ることが不可能な“何か”を失った。パズルのピースが1つ欠ければ完成しない様に、なければ私という性質が欠けてしまう程に大きい“何か”。

それを見極める為に向き合う時間と空間を作り出すべきと分かっていても、行動に移さない我が性を恨む。約21年付き合ってきた頭と性格、理解している筈なのにも関わらず怠惰なもの。

虚無や喪失感に蝕まれながらも、それを隠すまでとはいかず、それらを心ゆく迄楽しむつもりでもいる。仲良く肩を組まねば、言葉を交わす事も可能でないから。

 

この4ヶ月、日記に起こさなければ流れてしまう程、毎日が冒険と発見に溢れている。氾濫を起こして大洪水(といいつつも文字に起こしていないのはまた怠惰)。

洪水に大切な欠片を流されてしまわぬ様に慎重に、失われた“何か”を見つける為に大胆に、残りの5ヶ月私のゆく路をすぱっと開拓する他選択肢は残ってない。残さない。振り向けば、逃げたもの、飛び越えたもの、すり抜けたもの、切り崩したもの、いろんなものが転がった混沌とした道だけれどもそれはそれで私の下した決断と結果のアスファルト

限られた時間と場所は、その期間は私だけの居場所。なる様にする、骨の髄まで楽しみ尽くす他無いじゃない?

 

24.05.2019

文学を学びたい。

そう思って専門学校を退学した筈なのに、気づけばバイト生活だったら好きな時に働いて休みたい時は休めるしこのままで…、なんて生温い考えに至り始めてた。

未だ文学を学びたい気持ちも残っているし、正社員になって地に足をつけなければという危機感も残っている。けれど、先の話過ぎて現実味が湧かないのか、それとも、今この現状でその為に出来ることが働くことしかないから立ち止まっているのか。恐らく、どちらも相まって雁字搦めになっているんだろうと思う。

 

その矢先、だいすきなYouTuberが各々の夢の為に活動休止を発表した上、就職して4月から新社会人として働く友人と再会したら、「このままで本当にいいの?」と囁くように叫ぶ声がこだました。先ず出来ることはオーストラリアで現地でしか出来ない経験を身に付けて帰ってくること。アシスタントとして日本語を伝え、現地生活を送る中でやりたい事へのヒントを掴むこと。それから、現実とやりたい事を擦り合わせて、地に足つける準備に取り掛かろうと思う。

 

未だきっと間に合うはず、だよね?

 

 

 

2019.03.23

あなたの選ぶ言葉がすき

 

そう言ってもらえても、そんな滅相な、と謙遜に謙遜を重ねていたけれど、最近はそれが私の持つ武器なんじゃないかと思う。

そう言ってもらえるなら私にしか出来ない表現や言葉選びをして発信してみたいと思えるくらいには自信がついている。

私の思考を言語化するのを通して、すきと言ってもらえる。予想外に泣いたと言ってもらえる。そんな幸せなことって存在していいのか、とは思うけれど。 

 

言葉を操るのが上手な人はこの世にごまんといるけれど、誰が1番だなんて決められない世界。だから私は私の表現言葉選びを大切にしたい。それは私の持つ語彙力と想像力と思いやりとを調合した私だけの言葉。

私は言葉の魔法使いになる。いつか、ね。

2019.03.03

「分人」のこと

昨日からサイコパスみのある内容になってる。

 


平野啓一郎さんの本を読んで以来、分人主義を掲げている。

分人=知り合いに対応する複数の自分=個人

1対1の関わりを1として、関わる人が変われば私の顔も勿論変わるから私の顔は10にも50にもなる、でもそれは全て私だということ。(≠多重人格)(超私的解釈)

 


人付き合いが得意でない分、人によっても、家の外と中によっても、私は私を使い分ける。何故か小学校低学年には身についていたから、自然と使い分けて過ごしてきたけれど、中学~高校で関わりが増える度自分が細分化されて疲弊すること、生きづらいと感じることが増えた。

 


「本当の自分ってどの自分?」って。

 


その矢先に「分人」が出てくる本と逢った。

この人達といる時の私も、あの子といる時の私も、総じて私という人間の構成要素の1つで、その集合体も私。「本当の自分」はただの幻想でしかない。

 


それ以来、この人といる時の自分はこうなんだ、とか、あの人だからこの自分を今日は当ててみよう、とか、常に考えてる…わけじゃないけど、少し知るようになった。それだけで生きやすくなった。対人関係が苦ではなくなった、少しだけ。

 


「分人」は自分が作る心地いい、生きやすい自分のあり方で私はどの分人も私だから愛してる。私は私を愛して、自己愛に生きる。

2019.03.02

「死」とは。

 

祖母の3回忌にあたって少し考えた。死んでしまった、という事実は飲み込めているけど、もういない、ということについてはまだ信じていない孫の思慮。

 

辞書には、“生活機能が不可逆的に失われてしまったこと”、“生命がなくなること。死ぬこと。また、生命が存在しないこと” と。

意味を捉えて仕舞えば=になるものではあるけれど、そもそも生も死も抽象的概念過ぎて掴めない。脳死でも心臓が動いていればそれは「死」にはならない(“生命が存在しないこと”という辞書の定義的に言えば)し、逆に、心臓さえ止まって仕舞えばそれは「死」となる。人間、動物に限るが。

でもそれは形骸的な「死」であって、精神論を振りかざせば、キリストにも仏教にも神道にも「あの世」的概念は存在していて、形骸的死を迎えた「魂」(そもそも存在するのか)はいつ死を迎えるのかもまた謎。その魂があの世で永遠に生き続けるとすればそれもそれで恐怖というか、だったら形骸的に不死でよくない?とも思う。

 

結局、「死」とは身近に感じ始めたが最後、人生同様答えの出ない一生の問い、というのが私の答え。そもそも、考えたところで誰も死んだことないから答えなんて知らないじゃん(笑)

 

実現可能な世の中になったら、チームを組んで臨死体験を何度か積んで、「死」について「あの世」について、今は想像で語られる概念だからこそ、子供にも大人にも誰にも腑に落ちる答えを世に知らしめたい。あわよくば、の話だけど。願ったり。

2019.02.22

今の状況を作り出したのは自分のせいだけじゃなくて周りの関わってきた人たちが少なからず影響を及ぼしていること

その認識を持つことはあまいわけではないこと

今やってることを糧にしていかに将来に還元するかということ

 

決して今の時間を無駄なんかしない。

じゃあ先ずは目的を見つけることを目標にしようよ、一気にハードルあげても飛べないじゃん私。そもそもハードル飛べないし。体育の授業で全部倒して突き進んだ人じゃん。、、、あれ?

 

「自分のため」に仕事したいし生きたいし行動を起こしたい。周りの誰かの一助になれる人になりたいけどまずは自分の人生を進みたいから、少しは良い意味の自己中心さを外で大切にしようか。大丈夫、思うほど人は見てない感じてない気にしてるのは自分しかおらんのよ。

殻破った先の景色、見に行こう。